対話のない農村は存在しない。
都市と農村の交流は可能だ。
ただ、どうすれば民主的に見えるかさえ知らない農村は存在する。
ミラーイメージは鏡像であるが、鏡像を忘れた集団性は農村部の団塊の世代が構成していることがほとんどだ。彼らの共通点は、最初に都市からUターンした世代だ。そして定住者として手厚く保護された補助金バブル世代だ。
彼らの特徴は、一階がトラクターを格納する納屋があり、その2階部分に息子夫婦が住んでいる。
このトラクターも納屋も補助金(自己負担は最大で50%)で個人所有にされたものだ。
補助金は、利子どころか返済の義務のないことはいうまでもない。
こうして、住民票だけを残して息子たちは都市に移住して別の職業に就くことになる。
彼も再び村への定住者として手厚く保護される準備のために。(少なくとも2年前までは3子目を生みに帰ると、100万円が奨励金として贈与されていた農村は無数にあった。いうまでもなく子供たちは都市で教育される。)
こうした日常性こそ市町村合併前までの<明るい農村>の姿だ。
<明るい農村>は補助金による循環型社会の実例の一端にすぎないが、
この分野の都市と農村の格差はほとんど知られていない。
知られていない最大の理由は、都市納税者の常識からは想像できないからだ。
メディアは農村部の高齢化少子化を心配するが、こうした会計学は決して取材しない。
取材記者もまた都市納税者の常識のままだ。
こうした日本型権力構造が、グローバリゼイションの障壁になることは戦後の農村部を解体したアメリカの戦略のとおりであった。
なぜなら農民は補助金のおかげで、現金をほとんど貯蓄できたからである。
郵政民営化までのシナリオは、アメリカの軍部の戦略ノウハウである。 Y.K