試験が済むと、たいていのことはすぐに忘れてしまう。
忘れなければ耐えられない内容だからである。
学校で学ぶことは、最初の計画的陳腐化である。
この計画的陳腐化の後で、傷ついてなお残っているもの、それこそ教育だ。
この教育は、学校がなければもっと残れるとは考えないのが、教師たちとPTAだ。学校社会は、人間の精神は文化環境によって形成されるという幻想によって維持されているにすぎない。
言語の普遍的デフォルトについて何も分かっていない。 Y.K
月別アーカイブ: 2006年11月
うどん屋さん
役人、銀行員、会社員にはなるな。
月給取りはつまらぬから、うどん屋さんや風呂屋さんのように独立した実業人になれ。
と福沢諭吉(1835〜1901)は言っている。
しかし、馬車で移動した1世紀も前のことだ。
21世紀ではうどん屋さんや風呂屋さんは、独立した科学者や発明家になれる。
それが情報産業社会だ。
だからといって、多くの科学者や発明家は、国家や企業に雇用されているので、
役人、銀行員、会社員と変わらない生活をしている。
彼らが、うどん屋さんや風呂屋さんのように自由ではないことは明らかだ。 Y.K
教育死亡率
飛行機にエンジントラブルがあれば、
緊急着陸するか、原因が解明するまでは飛行はできない。
墜落事故の原因から設計変更される場合がある。
自動車にも電気製品にもリコールがある。
ところが、こどもが自殺しているにもかかわらず、その学校は今日も運営されている。
教育システムは工業製品ではないが、生命に関わりがあることは明らかである。
大学の合格率と同様に、
日本の義務教育システムによる死亡率を公開すべきである。 Y.K
聞く人
ところが、聞く人は、学校にはいない。
その人も学校は、大気圏外よりも危険だと感じている。
こうして、危険だといえる大人が学校からいなくなった。
教えるばかりのつまらない人が教師になったのは
両親がこどものために聞く人を探さないからだ。 Y.K
学校
学校へ行かないことは、死ぬよりもつらいのである。
だから、毎日学校で子供が死んでいる。
学校は、大気圏外よりも危険な場所に違いない。
そろそろ家に帰って、家族と一緒に暮らそうではないか。
みんな大きな家がある。
勉強は、コタツでみかんを食べながら母さんと一緒にするもんだ。
そして母さんも分からないときには、母さんと一緒に聞きに行くんだ。
聞く人は、母さんが心から尊敬できる人に決まっている。 Y.K
流体地理学
大気圏で二酸化炭素が増加しても、酸素の含有率が一定なのは
生命にとっての大気圏のシンメトリーが存在するからである。
厚い地層が強く褶曲して変形し、マグマの活動や変成作用が起こり、
やがて一大山脈となり大陸地殻に転化してゆく過程の
地殻の動的で可視的な均衡(プレートテクトニクス)以外に、
大気圏の不可視なシンメトリーが、生物の生きる場所を決定している。
バイオスフィアに[固体は存在しない]という流体地理学から
21世紀のデザインサイエンスは始まる。 Y.K
シナジェティクス
では、分類学は、メタフィジクスなのかフィジクスなのか。
バックミンスター・フラーはシナジェティクスを分類するシステムを
シナジェティクスに包括している希有な超『自然学』学徒である。 Y.K
メタフィジクスと超訳
「形而上学」は、
『易経』の「形而上者謂之道、形而下者謂之器」
(形よりして上なる者これを道と謂い、形よりして下なる者これを器と謂う)
に由来していて、
明治時代にこの概念を導入した際の頼りない、一種の超訳=メタ訳なのである。
こうした訳語は不思議とカタカナで語の本来の意味が復活する。 Y.K
メタフィジクスとフィジクス
アリストテレスは、ほとんどの重要な講義を文章として残している。
そのうち、物体の運動などこの世界の物理的現象を扱った講義録があるが、後の分類学者がその遺稿に対し、テーマごとに分類して『自然学』(physika)とした。この『自然学』(physika)の講義録には、続編があり、この現実世界の「背後」にある原理などが考察されていた。分類学者が、この講義のことを 『自然学の後に続く書』(”ta meta ta physika”)と分類した。つまり、アリストテレスの分類ではないが、自然的なものを超え自然的なものの基礎となる問題について考察する学は、21世紀でもメタフィジクス(Metaphysics)と呼ばれている。一方、フィジクスは『自然学』ではなく『物理学』だけを意味するようになった。
メタフィジクスは哲学でフィジクスが科学だと明確に分類する概念は、
古代ギリシャの『自然学』にもなかったが、
現在の『物理学』は完全に除外している。
メタフィジクスは、「科学的ではない」という常識が支配している。
超専門分化するのは、フィジクスばかりであるという
分類学のルールに従っているだけである。 Y.K
短命なロハス的思考
ロハスはヒト・モノ・カネから、ヒト・モノ・コトを対象とした。
しかし、エコロジーは、本質的に重さのない相互関係から成り立つ、
予測不可能な総体(コト)である。
(カネをコトに替えただけは、シナジーに到達できない。)
ロハスは都市型スローライフの賢い消費者になるための啓蒙である。
スローに同調するライフスタイルの問題だ。
エコロジーはスローでもファーストでもない。
自然は、超低周波から高低周波までの現実とつねに同調している。
ヒト・モノ・コトという主に可視化を対象とするロハスは、
バイオスフィアには決して同調できないだろう。
これはライフスタイルの問題ではなく直観の問題である。 Y.K