私の父は被爆者であるが、 88歳でまだ健全だ。
彼はデジタルフォトに挑戦するフォトグラファーだ。
21世紀の写真は、デジカメからフィルムスキャナー、パソコンとプリンター
そしてフォト用紙のすべての操作を必要とするが、
彼は体力を理由に暗室での作業からの撤退を決意した。
デジタル作業工程では現像という化学反応と違っていつでも休める。
しかし、印画紙に変わる印刷用の光沢紙は染料を求めている。
デスクトップの画面のようにプリンターまでクリアタイプが主流となった。
バーチャルな現実を見るには光沢と色彩というメガネが強要される。
そして、遂に3台目のマットブラック顔料を使用する大型プリンターを購入した。
彼はマットな白黒表現が好きで、色彩を重んじているからだ。
その願望を実現するにはデジタルのハイエンドユーザを意味している。
彼の視力はかなり低下したが
液晶画面ではなく、ファインダー付きのデジカメにこだわっている。
父の健全な記憶力と好奇心は、
このファインダーによる見る行為に基づいた記憶方式の習慣と考えられる。
ファインダーなきデジカメは
裸眼の視覚体験から遠ざかる傾向にある。
Photographとは
観察者がハロゲン化銀の不透明性を
非同時的に裸眼で確認する「光で描く装置」である。
これはプリミティブな写真の原点だ。
彼は11歳の時にカメラの原理を体験した。
彼はこの3年間不透明な顔料インクのプリンターを待っていたのは
この体験に見合う道具を求めていたからだ。
自然界にそもそもデスクトップや染料インクのような光沢は存在しない。
光沢は本来表現のための部分である。
主観的体験を光沢タイプに変換するためには
意識的なレンダリングが行われるが、
この規格化しすぎた翻訳調は、ユーザの暗黙の了解からではなく
表現者の選択肢の一つでなければ、
「光で描く装置」にはならないだろう。 Y.K