重視する時に、
重さを必要とする社会システムは「抽象的」である。
考察するには重さを感じさせる習慣は
まだ個人に生き残っている。
「抽象」とは変換不可能な静止した考察にちがいない。
だから経験的な意味を持たない。
考察は本来無重力である。
ものごとの極限が非物質的な存在(=抽象)に接近するのではなく、
変形可能な動詞の変遷にのみ関与することである。 Y.K
重視する時に、
重さを必要とする社会システムは「抽象的」である。
考察するには重さを感じさせる習慣は
まだ個人に生き残っている。
「抽象」とは変換不可能な静止した考察にちがいない。
だから経験的な意味を持たない。
考察は本来無重力である。
ものごとの極限が非物質的な存在(=抽象)に接近するのではなく、
変形可能な動詞の変遷にのみ関与することである。 Y.K
巨費を投じても技術的に不安定な原子力発電が
温暖化防止策としてもっとも有効ならば、
巨費を投じて、なぜ化石燃料にまったく依存しない
すでに技術的に完成された燃料電池を量産化しないのだろう。
1リットル150円を超えたガソリンの値上げで
原子力の話が出てきているのは偶然ではない。
温暖化に纏わるエネルギー危機は
もっとも単純で根深い危機の擬態である。 Y.K
テンセグリティを棒と紐から構成された
危険な構造という人がいる。
それは、人間を「血の入った袋」というようなものである。
構造から重さのないシナジーは除外されたままだ。 Y.K
身体には4つのプライバシーがあると思われている。
聴覚的、触覚的、視覚的、嗅覚的に消失させる
建築空間はほとんど不透明な壁で構成されてきた。
社会は怖れと無知から
不透明な壁を固体的に形成してきたが、
敵からの防御という本来の目的を身体のプライバシーに
転換させてきたのである。
自然な仕切りは不透明な境界とは限らない。
他者とのコミュニケーションは
聴覚的、触覚的、視覚的、嗅覚的な共存を意味する。
愛情に溢れた共存は、
これまでの物理的かつモラル的な不透明性を排除するだろう。
透明性の確保は自己のテクノロジーそのものである。 Y.K
甘酒は麹から簡単に作れる。
最近の温度計付きのシャトルシェフは省エネの発酵装置となる。
お粥に含まれるデンプン、タンパク質、脂肪などを
麹カビが分泌した酵素によって
短時間に低分子化した結果、
甘酒にはすべての必須アミノ酸、そして大量のブドウ糖、
ビタミンB1 、ビタミンB2、ビタミンB6、
パントテン酸(善玉コレステロールを増やす働きがある)
などが含まれることになる。
玄米から作る場合は、玄米の繊維が多少残るが、
噛んで飲む甘酒は実に美味しい(無農薬玄米の場合だけである)。
これらの成分は、驚くほどの即効性あるので
飲む医療点滴に等しい。
もうじき、麹の季節は終わろうとしている。
そろそろ麹自体を純粋培養する装置を作らなければならない。
麹は甘酒作りのなかでもっとも高価な道具だからだ。 Y.K
インターネットの検索ロボットは世界を周遊している。
世界中で勃発している戦争が
日常化されただだの殺人だという風景を
確認できるシステムではないことは
このロボットには知らされていないようだ。
検索を不眠不休の彼だけに任せていけない。Y.K
全体に関わるのは圧縮材ではなく
張力材である。
ところが全体の概観を捉える行為を
習慣的に「骨格を為す」と言ったりする。
さらに「骨抜きにする」という戦略用語にもなっている。
われわれの概念はモデル言語よりも保守的である。
21世紀の海賊的指導者は
海や空の「上」にいて安心しているだろう。
この「上」という概念ですら
非海賊的な概念であることに気づくべきだが、・・・ Y.K
最近の洋服は体格に対して小さくなっている。
流行は非対称的なモードである。
社会学は、これまで原理の代わりに
人々が希求する非対称的で
極度の魅力的な存在様式を分類してきた。
しかし、現在の共産主義が資本主義を誘導する原因が
そのような高分割数的(High Frequency)な非対称性から生じていると
分析しているわけではない。
ハイブリッドカー、減農薬有機栽培米、オール電化住宅など
エネルギー、食料、シェルターは
もっとも非対称的で高価で極度の魅力を与え続けている。
非対称的な欲望で失わていくのは、宇宙の富である。 Y.K
人間の能力から見れば、
マルチタスクとは同時に仕事を処理することではなく
仮想的な物質を想定することによって
多層化された非同時的なネットワークを形成するように
プログラムを組むことである。
マルチタスクとは
最長経路を最短時間で
達成するクリティカル・パスの別名でもある。 Y.K
私はほとんどデザイナーとは仕事をしない。
学生時代に数学が苦手という理由だけで、
数学と無関係な美的存在を再現しようとするからである。
私はたいていの数学者は理解できない.。
美的センスに欠けるという理由だけで、
美に無縁な数学的自然を想定し
探求しようとするからである。
いずれにしても、両者は文化系と理科系という
1世紀前のカテゴリーのなかで、
探求するには退屈すぎるテーマに気づいていないのだ。 Y.K