月別アーカイブ: 2014年8月

陳腐化のためのテクノロジー

科学研究の目的は実用化への口実を元に
科学テクノロジーは実際は記号テクノロジーの変形となり
しばしば補助金獲得の競争になっている。
権力テクノロジーに接近し集結した科学研究者という組合同業者の中では
あるがままの自然を理解するための実践はたえず後退している。
懐胎期間を超える真の実践は
補助金獲得によって、記号化された実用化とは異なる。
なぜなら、懐胎期間を短縮する真の実践こそは、
権力テクノロジー自体を深く陳腐化するからである。
陳腐化のためのテクノロジーは
人間の目的意識や欲望の物質化ではなく、宇宙に属する。

砂のデルタ都市

この大規模災害で人生が変わるのは運命とは言えない。
広島はいまでも砂のデルタ都市だ。
太田川はこのデルタ都市を形成した大河である。
広島の八木地区はかつて太田川の堤防沿いに拡がる
美しい梅林で、徒歩での春の遠足を思い出す
沢や谷を宅地に偽装して
住宅を買わされた人たちは
古い土地資本主義の未来の犠牲者だった。
観測史上記録的な豪雨といった誇張した気象現象に原因を求めるよりも
無謀で悪質な都市計画と土木事業を批判する古典的な地理学が不在なのだ。
この災害が地球温暖化説で説明されるのはもっとも虚しい。
自然気象を偽装できるほど、人間は自然を知らないまま
砂上都市はつねに流動する<浮かぶ都市>なのである。
実際、広島の地下鉄のインフラが整備できたのは20世紀後半になってからであり
しかも本通 – 県庁前間の0.3kmしか建造できなかったのである。

Doing everything with nothing

すべての原子は互いに掛け替えられ
掛け替えられる毎に劣化しないのである。
掛け替えのない
唯一無二の美や心の優しさ、喜びが
個人の生活を支える根拠と見せかける社会が
戦争の根拠を捏造し
疫病の恐怖で人々の行動を制限し
われわれを徐々に破壊しているのである。
夕暮れから焚火をして
星々の瞬きと共に眠りにつく前に
焚火の炎よりも輝く
流星群を見る生活を記憶した末裔までも
殺してしまったのである。
唯一無二の網膜を超えた解像度でさえ、再び、
無限に掛け替えられる美や心の優しさ
そして、喜びを見ることはできない。
原子の役割が原子周期律表に記載されなかったように
人間の役割が、まだ記号化されていない惑星にいる。

環境デザイン

実践によって環境をデザインできる。
しかし、環境を支配できないのは
人間は環境の一部でしかなく、
どの部分からも全体から見通すことすらできないからではなく、
「環境とは、自己を除くすべて (R.B.Fuller)」だからである。
そして「宇宙とは、自分を含むすべて (R.B.Fuller)」であり、
自己を除外して全体は存在しないからである。
環境デザイン理論は、洞察の一形式であり
ダーウィンから始まった生態学的思考形式の一つのタイプでしかない。
環境の部分も全体も
自己を除いて互いに繋がっているにすぎない。
こうして、科学的行為に自己を除いて
投影された理論を求めている人々を
知的だと考える習慣がまだ生き残っている。

ハイエンドユーザ

テクノロジーの超専門家になろうとする若者たちは
原理の発見者とその概念化に失敗しても
たいていそば屋かうどん屋で生活できるとは考えていない。
だからこそ、才能が開花しない場合
権力構造と権力テクノロジーの虜にされる。
動機なき超専門家を試行する人間に
思考言語(thinktionary)の形成は困難である。
彼らが記号テクノロジーの
ハイエンドユーザであるかぎり
動機なき超専門家を教育するシステムは存続する。

科学論文

科学論文投稿までには
「1. 着想・企画、2. 実験の実施、3. データの解析と図表の作成、
4. 論文の文章の書き上げの4段階」があるらしい。
科学的発見の過程に
科学論文の記述方法の天才性などは介在しない。
なぜなら、科学は<着想>から始まるのでなく
<発見>から始まるからである。
優れた<着想>を作り上げるための科学論文の記述方法の天才性などは
専門分化に従事する専門家たちの自惚れである。
原理の発見者とその概念化におけるパイオニアは、
しばしば、論文のレフリーや熱狂的な投稿者とは無縁な生活をしている。
シナジェティクスは学会を形成しない純粋科学における
探究方法を開発してきた。

生息地(=habitat)

エアコンや冷蔵庫、そして携帯電話などの省エネには関心があるが
大多数の住居の空力抵抗や奪われる熱エネルギーを軽減するデザインには
人々はまだ無関心である。
切り取られた大地を所有して
固定され静止したままで再び所有される不動産で
富を増大させる土地資本主義を
最優先してきたからだ。
自然の富の形成方法は
個人の富を増やす手段とは
とは無関係である。
生息地や住居環境(=habitat)を
自らこしらえる時間と技術を他者に依存するのは
哺乳類では人類だけだ。
グランチの最初の生息地は
行き過ぎたこの専門分化を維持できる場所だったのである。

アブラコウモリ(Pipistrellus abramus)

この季節の油蝙蝠は
19時30分に外出し、4時30分に空から帰宅する。
私が仕事する時間は、
コウモリと完全に反対称的である。
一回の飛行で餌となるカやガ、 ハエ、ユスリカなどの
小型の昆虫を体重の半分近くの3グラム程度食べるらしい。
低速で飛行するわりには彼らの捕獲が困難なのは
自在に角度変化できる主翼の手と共に
コウモリの長いしなやかな三角形上のしっぽに
優れた尾翼の機能があるにちがいない。
コウモリの全長はこの折りたたみ可能な
尾翼のために極めて測定しにくい。
飛行中の撥水性を帯びるために
油を塗ったような体表の触感が彼らの名称である。
空中や水中を移動しながら捕食する
生命体は移動エネルギーを確保する以上に
生存のためのエネルギーを保存するために
空気や水の抵抗を軽減する形態をデザインしている。

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告白(profess)

プロフェッサー(professor)とは
信仰の告白者へのレッテルであった。
さもなくば、眼鏡をかけた賭博師か
酒場のピアニストであった。
20世紀のプロフェッショナルとは
知識を商売にする人々である。
その語源は
自己を偽って称して生きる者たちへの
揶揄であった。
シナジェティクスに教授は不要だ。
自己と宇宙の無数の動的な関係に
人格は介在しない。