圧縮材と張力材の統合がテンセグリティ構造で認識されるのではなく、
圧縮力と張力という相補性が表象に帰される
モデル言語の形成がなされてこそ
この表象が他者に伝達可能になのだ。
モデル言語の形成はモデリングからではない。
互いに異質な概念を把捉し
それを意識による統合作用に取り込むための。
圧縮材と張力材の統合がテンセグリティ構造で認識されるのではなく、
圧縮力と張力という相補性が表象に帰される
モデル言語の形成がなされてこそ
この表象が他者に伝達可能になのだ。
モデル言語の形成はモデリングからではない。
互いに異質な概念を把捉し
それを意識による統合作用に取り込むための。
張力材に金属ワイヤーや金属ロープを使うのは
まるで自分が打倒しようとする構造の非軽量化を
自分の構造に持ち込んでしまうような
破綻的行為にまるで気づかない人たちが
有限要素法を前提にしたテンセグリティの構造解析に耽っている。
定義された領域を小領域(=有限要素)に分割し
各要素を単純で共通な補間関数で近似することが
シナジーを再現する方法になりうるとは
だれも論証できていないにもかかわらず。
テンセグリティの構造解析は
破壊実験以上の方法はまだ見当たらない。
つまり、統合された破壊過程すら、その理論では予測できないのだ。
装ったり、耽ったりするすべての技術は
それ自体を目的としている専門分化の
行き場のない分断機能から形成される。
個人を監視し、管理し、動機を排除しながら学習させ、
繰り返し矯正していく仕組みに追い込まれることに順応させ
日常的に個人を圧迫する言動や組織を支持するシステムを
最終的に教室やスーパーや道路上、そして映画館でさえも拒絶するのは、
自由への原型的構造である。
そして、それはデザインサイエンスを試行する
鋳型(=プロトタイプ)形成への前提である。
原型的構造は監視された動機からは生まれない。
知性の序列と階層化は
学校においてほぼ最初に接する
集団性テクノロジーへの帰属である。
共同性を排除するために
教育は、個々人の個性化でその力を制御する。
共同性の力よりも
集団性と個性化を選ぶほどその力を怖れているのは
共同性には
すぐれた遠隔コミュニケーション力が求められるからだ。
遠隔コミュニケーション力には
生得的な直観が含まれる。
この電磁誘導装置のスイッチが入らなければ
個性化などは、知性の序列と階層化という時代遅れの方法でしかない。
構造が重力に対して服従する様々な形式では
圧縮力があたかも主体化されるようなシステムを
前提にしているかのようであるが
テンセグリティによって
その前提はすべて完全に覆されたのである。
圧縮力を生むのは、
圧縮材の自重や重力による反作用ではなく
張力材の張力によって圧縮力を生成するシステムであった。
テンセグリティ構造は重力に依存しない唯一の構造として
発見された。
重力に依存しない構造を
思考することさえできなかった歴史のなかで
人間が服従化されていく疑似社会構造は
上からだけではなく、ほとんど下から
滲み出てくる圧縮力(=疑似重力)によって形成されている。
疑似重力圏内で育った彼らは、
重厚な経済的・政治的人格を尊敬する傾向がある。
軽薄短小な構成部材からなるテンセグリティ構造を
理解できない社会構造は
自分たちの圧縮力を英雄化する習慣のある経済・政治指導者たちだけで
形成されているわけではない。
真の構造を捉える構造の定義は
テンセグリティの発見まで何も存在していなかったのである。
服従への自由もある。
持てざる自由を要求するが
ありふれた自由を行使しない人々の。
安全と保障を求めすぎると規律と刑罰が待ち構えている。
秩序と規律を求めすぎると法律と軍隊が待ち構えている。
それらが、服従へのテクノロジーだからだ。
自由を実現するテクノロジーに無関心にさせるのは
監視のテクノロジーである。
信頼できる隣人をだれも作れないように。
すべての可能な構造的な解決を退けるような
デザインがある。
シナジェティクスは、そのモデリングには関与しない。
例えば、折りたたみ可能な機能を求めただけの構造。
折りたためる構造は、もはや構造ではない部分の
折りたたみ機能によって、非構造化しているばかりか
構造の定義から逸脱する。
自然から発見された
純粋な折りたためる構造(たとえば、DNA構造)は
生存のための複製機能としてデザインされている。
デザインサイエンスは、純粋な構造を複製する。
平和によって偽装されて
継続される戦争こそ
最大の技法(=テクノロジー)なのである。
監視され、学習によって訓練され
矯正される人々が
より良い暮らしのために求めるのは
より細かく再分割されたこの技法なのである。
日本の自動車工場内での禁止事項や拒絶命令の役割を
担わされた上部構造から
生産性のためのサイクリック性は生まれなかった。
それが機能する組立ラインのそれぞれの場所で
直接的に生産的役割を担うための
サイクリック性(正社員になるための生産効率性)は
正常な人間を基準として
労働者の平均的な身体性までもが
子供の時の学習過程から再構成されなければ
到底形成できないだろう。
それらはテクノロジーと権力との見事な調和から生まれるのだ。
そして、
シナジェティクスは
反サイクリック性からしか生まれないことの
認識から開始される。
もっともプリミティブな構造とは
自己の自己への関係として定義されるからだ。