リアリティはもはや表現技術から生まれない。
それは世界との対話の側にあるのではなく
まして形態やビジュアルからではなく、
シナジェティクスモデルが
モデル言語の内的で交差したモデリングの過程から
生まれるように
真実や美が生まれる場所が
デスクトップから移動したのだ。
リアリティはもはや表現技術から生まれない。
それは世界との対話の側にあるのではなく
まして形態やビジュアルからではなく、
シナジェティクスモデルが
モデル言語の内的で交差したモデリングの過程から
生まれるように
真実や美が生まれる場所が
デスクトップから移動したのだ。
デザインサイエンスの社会的経済的な場における想像力の貧困と実践力の停滞が、
一体どこから来るのかとその理由を探ると
バックミンスター・フラーのシナジェティクスの理解のためのモデリングの不足が
それらの情況を引き起こしているように思われる。
———私が20代に『シナジェティクス』に言及される
すべてのモデルを繰り返し作成した経験からも。
未だに全天候性のジオデシック構造でさえ
個人が経済的に入手することができていないのは
建築や建築コードの課題ではないのだ。
フレーム構造だけのあるいは、面材だけのジオデシックの実験は
ほぼ半世紀前に終わっている。
私にとって
いかにして時間を内包しない幾何学(とりわけ神聖幾何学)主義者および
建築的あデザインと縁を切るかという課題が
シナジェティクスのための開発思考力と
そのモデル言語の形成にとっても根本的なものであった。
個人のための住居機械をデザインし生産する上で
宇宙と自己との関係から
新たな構造とパターンを探査する行為なくして
頭脳的な人工的デザインの優位性に置き換えるほど
デザインサイエンスの想像力と実践力の停滞を招く行為は存在しない。
バックミンスター・フラーレンの諸機能は、隕石の中ではありふれている。
つまり、バックミンスター・フラーレンは神聖幾何学から生まれていない。
人間がこれまでの時間を排除した幾何学的情報から
その構造を解釈できるだけである。
宇宙に存在し、人類に有用な構造とパターンはつねに発見されてきた。
シナジェティクスの理解のためのモデリングの不足は
こうした宇宙のデザインの発見によって
すべて補われてきた現実の認識から
シナジェティクスは始まる。
あるアイデア領域から別のアイデア領域に移るとは
アイデアを変更することではなく
観察者の場を転移することである。
かつての場を通過する時
その場から得た思考方法を否定し除外し破棄するだけではない。
まったく別の原理から成り立つ視点を発見する行為を伴う。
ドローイングの対象が
そしてモデリングの構造とパターンが
まったく別の視点から描かれるだけかもしれない。
表現される度に確定された構造と意味が
重々しい無関心に感じる時が
転移する時である。
転移する方法さえも陳腐化する時である。
<構造とパターン>における<知>は
建築の構造物に変換過程で
固体的疑似システム・記号のテクノロジー・心理学といった異なる局面で
成立させられた結果
繰り返される退屈な夕暮が訪れる。
緩慢な侵蝕作用によるこうした暴力と死は
その岩のような不動性に見せかけた平面的な壁面に
昼となく夜となく
人間的な真実を投影する。
シナジェティクスは
その人間的な真実から<構造とパターン>が
如何に絶縁できるかというテクノロジーでもある。
真の<構造とパターン>は
すべての夕暮を夜空の回転する星々に変換する
ジオスコープなのである。
カネ、モノ、ヒトとの相互関係からは
創造性、独自性、生産性との統合力を生まなかった。
それらの統合力を実現する方法に
量産性を前提にする時代は終わった。
量産性は
大量の貧困と難民、そして
無限の贈与を生む手段に利用されてきた。
自己のテクノロジーは
同じ金型から量産できない。
シナジーは、これまで相乗効果(synergy)と翻訳され、
ある要素が他の要素と合わさる事によって
単体で得られる以上の結果を上げる時に
使用されてきた。
しかし、相乗効果を期待して、全体の最適化、効率化を
発揮させるような計画を作ること自体が
すでに間違っている。
なぜなら、単体で得られる以上の結果を考えること自体が
予測不可能である科学的事態をまったく除外しているからだ。
計画的に予測的に合成された合金など科学史には存在しない。
シナジーに関する社会的経済的な無知は
前世紀と変わらない。
シナジーに関するこの誤謬は
シナジェティクスにまで及んでいるが
シナジーは、自然と未知(unknown)をも支配する現実を
その探求者が知る時はやがて訪れる。
シナジーは実在の過程に潜むからだ。
何かを人間のために作る前に
知るべき段階としてそれはデザインされている。
利益から、あるいは競争から、
善意から、そして支配や破壊から
何かを作る人々から遠ざかるために。
現在の人間の生命を保護する建築の構造とパターンは
基本的にはキュービックであり
人間主体の伝統的な行動様式で生きている
そして場合に応じて、このキュービックな構造とパターンは
根本的に地震に対して安全だと言う工学的な側についたり
構造の安全率は建築コードによって決定されている
と言う権力的な側についたりした結果生まれるようなプロセスでは
不十分だということを
私はバックミンスター・フラーから学んだ。
なぜなら、自然の構造とパターンは
未知のシナジーによって支えられていて
しかも、それらを統合している存在が
それらの構造とパターンを作り出しているからである。
自然はその構造とパターンを無償で生成する方法において
だれの許可も得ない。
つまり、バックミンスター・フラーは
構造の破壊と革命において
<建築家>であったことは一度もなかったのである。
実際、かれは建築家のライセンスを一生持たなかった。
ライト兄弟は、人類初の飛行実験において
誰の許可も得なかったゆえに、揚力の存在を証明できたのである。
航空力学は、彼らの実験には有用ではなかったと同時に
航空力学がその実験の後に形成された事実を
現在の教育プログラムから除外してきた理由は
ジオデシック構造の構造解析方法も
複数のジオデシックドームの建造の後の
破棄実験から形成されている事実を説明するだろう。
人々は無数の許可の元で、種々の自由や構造さえも定義している。
風が吹くと
テンセグリティは共鳴する。
いくつかの共鳴音から風の速度が推定できる。
これまでその音楽に耳を傾けなかったのは
動的均衡を音に変換できるとは
考えていないかったからである。
パイプの片側表面が常時乱流境界層に保たれるためには
パイプの振動による乱流境界層が必要なのである。
パイプという圧縮材の共鳴には、
テンション材の振動数を調整するための
高度の調律の技法が必要であるが
テンセグリティを通過した風は
鏡面音と共に整流されている可能性がある。
もしテンセグリティの張力材の調整にターンバックルを使用すると
この音楽は、すっかり後退する。
太陽系がもし
惑星地球の楕円軌道の中心に2つ存在していたら
日没が2回あるのではなく
年中白夜になっただろう。
そして、世界時計が2つ共存するだろう。
その結果、相対性理論はもっと早く発見されていただろうに。
時計の針も楕円軌道を描くだろう。
現在の1つの世界時計はグランチが支配しているので
退屈な円運動をしているのである。
あまねく宇宙に
1つの中心は存在しない。
自然が
どのようにシェルターに働きかけるかを知るには
自分自身と共に生き
自分に相応しい思考にふけり
自己規律に従った行為によって
自分を外部から観ることからはじまるだろう。
人間だけが
自然と共に生きるには
もったいないからではなく
自然を癒す人間はいないから。