シナジェティクスの探究というものが
もっぱら新しい幾何学上の知識の獲得のみへの
願望によって遂行されるならば、
そうした探究にどれほどの価値があろうか。
真理を発見する技法が発見されたとしても
それは新しい幾何学上の知識によってではないからだ。
(もちろん、バックミンスター・フラーはそれを発見していたが
遺書となった『コスモグラフィー』(白揚社 2008)には
不完全であるが記録されている。)
シナジェティクスの探究というものが
もっぱら新しい幾何学上の知識の獲得のみへの
願望によって遂行されるならば、
そうした探究にどれほどの価値があろうか。
真理を発見する技法が発見されたとしても
それは新しい幾何学上の知識によってではないからだ。
(もちろん、バックミンスター・フラーはそれを発見していたが
遺書となった『コスモグラフィー』(白揚社 2008)には
不完全であるが記録されている。)
学習は、許可と禁止という分割思考によって征服され
認識には、最適と見做される平均的思考方法が定められ、
行動に関する許容の限界が無意識的に形成される。
(例えば、シナジェティクスが幾何学として、
デザインサイエンスがデザイン学として専門分化の限界内で認識される。)
こうしてた学習方法と擬似的な思考の構造は、表裏一体となる。
許容の限界は
ついに<個人的な選択肢>として受容され続けている。
こうして、両親の愛情と共に
人間の直観と詩の一行は去っていく。
集団で作動する多様なこうした力関係から
絶縁するテクノロジーがシナジェティクスである。