アルチュール・ランボーの詩を
学校で学ぶことを拒否できるように
シナジェティクスを学校で学ぶことを拒否できる。
まちがった刷り込みを拒む自由は
重要な自己のテクノロジーである。
なぜなら、シナジェティクスをマスターした人は
けっして現在の学校の教師にはならないからだ。
アルチュール・ランボーの詩を
学校で学ぶことを拒否できるように
シナジェティクスを学校で学ぶことを拒否できる。
まちがった刷り込みを拒む自由は
重要な自己のテクノロジーである。
なぜなら、シナジェティクスをマスターした人は
けっして現在の学校の教師にはならないからだ。
デザインサイエンスから学んだことは
経験の目録全体が同じでも、
経験を系統立てて述べる方法は絶えず少しずつ変化し、
思考過程に他者が参加すれば、常に自発的な思考が継続できることにある。
デザインサイエンスとプロダクトデザインとの違いは
すべての方法は目的意識(=know why)が先行することにある。
デザインサイエンスに、プロダクトデザインコースは存在しない。
自分が関与したい領域のすべての知識と手法(=know how)を学んでから
目的を達成するデザインを形成することが
もっとも効果的だと思考する疑似<システム>は
シナジェティクスにも存在しない。
幾何学を学んで、
動力学的なシナジェティクスモデルの運動の分析は
困難である。
シナジェティクスは幾何学を基盤とするのではなく、
生命科学や核物理学を基盤とする包括的科学である。
例えば、テンセグリティは、原子核構造から生まれ
原子核構造モデルそのものである。
さらに、テンセグリティ理論がなければ、
細胞の働きも細胞の構造も理解できなかった。
シナジェティクスにおいては、可視的な形態と不可視の概念との関係が
それまでの構造を革命的に変えてしまった。
この構造的変化(シンタックス)のため、言葉と観察方法に対して、
今まで到達不可能であったモデル言語が誘導され、転位し、さらに翻訳され
遂に数字と形態の間に新しい相互関係が発見され
階層的な序列構造が露わになった。
それは幾何学とはほど遠い領域(=『コスモグラフィー』)である。
シナジェティクスに対してある距離を置いて
デザインサイエンス・プロダクトでフラーの概念を複製するような関係を求めている人々、
つまり、バックミンスター・フラーに距離を置いて複製するだけの人々に、
発見されるシナジェティクス言語のモデル化の収穫の経験がないまま
シナジェティクスを直接的に探究する代わりに、それについて語るばかりか、
デザインサイエンスについて批評する人々に、
コスモグラフィー(=宇宙形態論)は期待できない。
コスモグラフィーなきシェルターに、物理的な有用性も概念の永続性もない。
シナジーの分析は、観察者の外部で、観察者への境界を確定する。
観察者に近接しながら観察者の現在性とは異質な存在として、
観察者の局所性を包含し、時間の外縁で、
宇宙の先験性と共に発見される。
シナジーの分析方法とその過程こそ
シナジーの発見者の特権である。
先験的なモデル言語の生成は、こどもが得意だ。
言語の生成過程を加速する触媒作用のための<場>以外に
何の目的が学校にあるのだろうか。
学校と教師とPTA(それらを受容する不動産としての建築物)は、
陳腐化した産業社会で作られた知識によって
作動してきた人工物の一つである。
こどもの直観は、陳腐化しないようにデザインされている。
シナジーとは、その全体性を記述することも
その現在性を回避することも不可能な原理である。
しかし、人類の言語は、
太陽系から細胞に至るまでシナジーには不向きだ。
だからこそ、モデル言語が発見されてきた。
シナジェティクスモデルを作成するのは
絶対的視点、第3者が再現可能な視点を発見するためではない。
自己との対話の過程を外部から見るためだ。
絶対的視点は、自己を排除した観察者からは生まれない。
絶対的視点は、つねに発見された概念から生まれる。
絶対的視点は、メタフィジックスに属する。
バックミンスター・フラーが、『クリティカル・パス』において
真理を語ることによって、自分と権力構造との関係を危険に晒し、
自分の生存さえも危険に晒す書だったのは
彼が死を意識しはじめた最晩年(1981年)を待って書き記したという事実にある。
宇宙の構造と世界権力構造との違いについて
発見され経験された事実を語られる読者は、遂に宇宙の物質間におけるフラーレーンのような
反権力的構造(=大地から自立し重力から離脱するテンセグリティ構造)としての
真理を受け入れなければならないだろう。
ーーーーーー反・超専門分化として機能する宇宙の「部分からは推測できない全体のシステムの働き」は
まだ到底社会構造には反映されていないという事実と共に。
実際、より多くの学生たちは、より専門分化された学問と職業を追い求めている。
ーーーーその動機がより高い生活水準(=自分以外の環境)ではなく
より高い収入(富による自分だけの環境)を求めるためだとしたら、
そのシステムの致命的な矛盾を生きる
反超専門分化としての包括的な人間形成はなくなるだろう。