テンセグリティは、
その張力材が部分的に破断しても
動揺するのではなく、
振動数の調整によって、新たな秩序に組み替える。
自然は、自らの決定にけっして動揺しない。
膨大な秩序によって、自然には破断がない。
破断実験は人間の想像力の限界から絶えず繰り返される。
テンセグリティは、
その張力材が部分的に破断しても
動揺するのではなく、
振動数の調整によって、新たな秩序に組み替える。
自然は、自らの決定にけっして動揺しない。
膨大な秩序によって、自然には破断がない。
破断実験は人間の想像力の限界から絶えず繰り返される。
構造という定義の範囲内で、
テンセグリティについて考えることが
テンセグリティを変えると考えていたかもしれない。
テンセグリティは、
その定義を思慮深く
より機敏に鋭くすることによって
構造の定義を変える。
テンセグリティの定義は
テンセグリティを変えない。
知識の教育、道徳教育、体育教育、に次いで「食育」教育、
そしてついに最近は「服育」ブランド教育、
そのどれからでも標準以外を排除することができるという「思育」管理ゲームだ。
平服から素速く兵服に転換できるように。
確率は、偶然性と矛盾する。
偶然が計画できないならば、
確率は包括性には接近できない。
自然の原理を発見する確率は存在しない。
どの住処で終わるか決めた人々は、
仲間(ほぼ住民)と本当の話はしない。職場でも同じだ。
人々の生きる場所は仮想の成層圏である。
無数の成層圏が互いに重なり合って同一の反射行動を形成する。
成層圏(ストラトス)は、
地球を包囲する対流圏であり
層状あるいは霧状の雲の層で覆われた場所であるが
古代ギリシャ語では軍隊を意味する。
万有引力は、確率から起こらない。
統計的な確率は、雑で未完成な道具だ。
互いに異なる起こりそうもない過去の出来事から選択する行為は
ネジ回しを金槌でたたき込むようなものだ。
テンセグリティは、棒と紐の組み合わせの確率から生まれる前の原理である。
紀元前から航海術に天測が利用され、ジャイロスコープや磁気コンパスがなくても
外洋航路を自由に行き来していたというテクノロジーは、
地球を外部から見るという天球儀を発明した古代の神官たちの蓄積したノウハウに
依存していることを現代人は理解したのである。
天測とは正確な世界時と三角関数の体系化である。
正確な世界時とは太陽による隔時観測法であるが、
時計のない時代の隔時観測法は北極星を中心としたの星座の回転角度から時間を割り出した。
海の民には、マストというつねに流動する海洋での鉛直線と
その鉛直線に対して直交するブームがあれば十分であった。
この単純さこそ思考の幾何学である。
1835年にフランスの科学者ガスパール・コリオリが導いたコリオリの力の原理から
自転車が発明されたわけではない。1813年にドイツで発明された。
ジャイロスコープを1836年、数学者エドワード・サングが地球の自転の検出に使うことを提言した時、
コリオリの力は発見されていたが、1852年にレオン・フーコーが
地球の自転を証明しようと実験に使用したジャイロスコープまで20年が経過している。
原理を発見する人とそれを実験で証明する人、そしてその原理を人工物にまで応用するにはそれぞれの懐胎期を伴う。
現在では、自転車が走行している限り倒れないのはコリオリの力だと認識されているが
人工物の発明が原理の発見以前にも存在する重要な科学的事実と発明者の独自な懐胎期は、
それほど認識されていない。
生産も消費も、動く閉じた柔軟な関係、つまり流体地理学的な世界観を急速に形成している。
そして教育と労働だけが、毎日同じ場所への通学と通勤を余儀なくさせられている。
これは21世紀に継続された反流動的で固体的な世界観である。
自己のテクノロジーには、外部から自己を観察する方法が含まれるが
誰も自己の外部を対象化することができない。
自己のテクノロジーは統合力を高める。