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テンセグリティシェルター

テンセグリティが美しいのは自慢にはならない。
それは対称性を視覚化した段階にすぎない。
しかし、テンセグリティシェルターが美しければ、
それは不可視の複数の原理を調整したデザインの美しさだ。
このデザインには少なくとも数学と工学が含まれるが
美学は不要だ。

思考言語(thinktionary)

シナジーは実験からのみ生まれている。
そしてその実験方法もまた経験された事実を統合する
思考のシナジーから生まれている。
例えば、テンセグリティには
他の構造にはない「柔軟な強度」がある。
「柔軟な強度」とは20年前のある論文で
私が最初に概念化した
構造の構成諸要素からは
けっして推測できない合金的な構造の機能である。
この「柔軟な強度」を
張力材の弾性的素材(ゴム紐や釣糸など)に
置き換えるという重要な間違いは
観察力の欠如ではなく
思考言語の欠如から生まれている。
具体性に置き換える過程にこそ
言語の牢獄は維持されている。

骨のある人

技術は長く、
人生は短いように、
自然は張力材をより長く、
圧縮材をより短く使う。
だから
われわれの身体の細胞は60兆個もある。
生物学的に「骨のある人」には
なれないようにデザインされている。

安定

システムを通過するエネルギーは
システムをより安定させることができる。
ただし、システムが閉じた場合である。
テンセグリティのように。
☆共鳴テンセグリティ
http://synergetics.jp/tensegrityblog/

外来種

張力材の連続性をみて楽観できても
不連続な圧縮材をみると未だ悲観しがちであるが、
真の構造は最古の隕石のなかで生き続けてきた。
テンセグリティ構造は、
まだ人の理解の百分の一にすぎない。

子ども

嫌いな子どもと話をしていて
親の顔が見たいとは思わない。
両親の話を反複するから。
尊敬できる大人と話をしていると
子どもの顔が見たいと思う。
私とする話がまったく想像できないから。
子どもと話をしない怠惰な両親と
大人と話ができない退屈な子どもは
ますます増えている。

より張力的に

政治や経済は
権力でより統合されている。
人々は圧縮の概念で行動する。
プレッシャーを与えたり受けたり。
しかし、圧縮には限界がある。
合金や細胞、そして
私の机の上のテンセグリティモデルを含む
宇宙は、
つねに張力で統合されている。
張力は長さに限界がないからだ。

統率VS統合

全体は部分から推測できないことに
人間は我慢できない。
個人は集団のために、集団は個人のために組織すると
ファシズム的な機構を帯びてくる。
テンセグリティにおいては、
張力材は分断された圧縮材の統合のためにある。
圧縮材と張力材がそれぞれ局所的に破壊されても
圧縮力と張力は動的な均衡を維持している。
統率者が不在のままで。
張力は距離を超越しているからだ。
質量をもつ物質・エネルギーが互いに引き合う重力のように、
統合するには
統率という人間の目的は不要だ。

構造とパターン————テンセグリティワークショップを終えて

水素と酸素がそれぞれ
水に似ていないように、
テンセグリティモデルは、棒と紐に似ていない。
テンセグリティは人間がデザインした形態ではなく。
構造の構成要素が化学反応した結果である。
この構造が自律的なのは、
その反応の結果が動的に安定しているからだ。
発見されたほとんどの化学反応は論理的には考えられなかった。
実験によって原因と結果に例外のない整合性があるから
自然を論理的に再構築しているのである。
真の構造の構成要素は、
テンセグリティの発見によって
はじめて発見された。
言い換えれば、構造という言葉ができたとき、
まだ誰も構造を定義できていなかったのである。
きれいな水がきれいな水素と酸素から形成されていなかったように、
美しいテンセグリティはけっして美しい棒と紐から形成されない。
圧縮材と張力材からなる非鏡像的な相補性
または
非連続の連続性の概念の発見こそは、
構造とパターンに高度な単純さを探求する
シナジェティクスの成果である。
自然は構造とパターンの宝庫である。

テンセグリティモデル

風はだれも見れないが
船乗りが風を受け入れるように、
本当のシナジーの概念を直観的に理解できるのは
テンセグリティだけ。
震えていない瞬間はないように
つねに角度と振動数に移り変わる。
本当の構造に名前を教えるのは
テンセグリティモデルだけ。
というメタフィジックスは
テンセグリティ・ワークショップで経験できる。