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井戸端(well)

努力する人は未来を語り、怠ける人は過去を語る。
どちらも今を生きているわけではない。
井戸端で水くみや洗濯などをしながらではなく
日々の稼ぐ仕事の傍らで
ただ語っているだけである。
21世紀の井戸端は至る処に湧き出ているから
かなりの物知り(=a well of information)になっているが
その井戸はどこからでも覗き込まれている。

知性

自分の経験よりも他人の経験を利用する
特殊な知性で生きていけるが
他人のためにその知性はほとんど使われない。

残像

親友が第2の自己であるとすると
その親友の親友は第3の自己である。
親友を悪友にかえても事情は変わらない。
自己増殖を望むのは、児童期の空想の残像だ。

単純さについて

自然の原理は単純である。
科学論文の審査機構のほうが自然よりも複雑である。
「Nature」に記載されたレベルのノウハウは
最初に発見された単純な概念レベルで十分である。
STAP細胞の再現性には
かなりの理論とノウハウがあってしかるべきである。
軍事技術を見る限り、もっとも効果的な発明が
特許出願がなくとも開発されてきたように
テクノロジーは科学論文の受理とは無関係に開発できる。
「Nature」に記載される名誉よりも
論文も審査に出さないだけでなく
特許出願しないそのノウハウの方が情況によっては
高価であるというビジネスは存在する。
それは単純な資本主義だ。

ところで、論文の審査機構において、審査される論文の機密性を一体誰が
民主的に監視できるのだろうか。
科学論文の審査機構がほぼ権力構造に属しているならば。

科学論文

専門分化しながらも
集団化した科学者のクライアントは
限りなく真実に見せかけた
科学論文の<構造>に夢中である。
論文形式と審査機構との相互作用は
民主主義的ではない。
STAP細胞の発見が
科学に無知なメディアと法律家資本主義に毒されたのは
科学論文の<構造>と科学者が構成する社会<構造>に
自由な人間どうしの対話が不在だからだろう。
科学者に自由な対話と批判をもたらす<構造>がなければ
動く<細胞>の構造も見えないだろう。
現在のテクノロジーとその余剰生産性からいえば
優れた科学者が国家公務員である必要はない。
この国には、10億円以上の現金を所有する個人が
150万人以上もいる。
細胞生物学もシナジェティクスのように
メタフィジックスに接近する科学なら
個人で展開可能な時代だ。

アンインストール

更新されるクラウドに身を委ねてしまうかぎり
昨日から超越する現実は訪れない。
経験の蓄積も知識の収集も
昨日までの思考方法を肯定するように働く時
安定願望を満たしているだけである。
—–条件反射にしたがって。
条件反射は
絶え間ない葛藤を生まないシステムの一部だ。

独占方法

新しい技術が仕事に有利さを
もたらすためのもっとも有効な方法は
見せびらかしから始まり、そして
十分にじらすことによって
いつの間にか人々に独占させることである。

高価と安価の起源

モノが高価ではない場合、
けっして安い(cheap)とは言わないだろう。
意図的に非効果的にしたモノこそが
実に安直(cheap)なのである。
同様に
高すぎるモノは
そのほとんどが計画的に思考しなかった
あるいは
行動しなかった結果なのである。