e・食・住(energy-food-shelter)」カテゴリーアーカイブ

暇人

農業人
自然を搾取するばかりで、
自然と共に生きることが不可能な人たち。

学者人
自然を観察するばかりで、
自然と共に生きることが不可能な人たち。

暇人
田舎でもっとも困難で、知的な行為は
何もしないことである。
これは、自然と共に生きる近道である。

もし、それに耐えられなければ、
醜い杉を切り倒して、焚き火をしよう。
間違った光合成の蓄積を解放させるのだ。  Y.K

自然の反革命

都会人は、何を食べるか、その選択の自由を奪うことができる。
農民が何を栽培すべきか、その選択の自由を奪うことができる。
なぜなら、工業化された農業が、より多くの食料を生産したことがないから。

学生が何を学ぶべきか、その選択の自由を奪うことができる。
教授が何を教えるべきか、その選択の自由を奪うことができる。
なぜなら、情報化された社会がより多くの方法を生産したことがないから。

すべては私から資源とエネルギー、そして秩序を盗むことで生産される。
なのにどうして、人は私に直接富を支払わないのだろうか。
そして、富がないほとんどの人は、私に感謝しないのだろうか。  Y.K

ショッピング

都市も驚くほど老人が多い。
都市の老人たちの食料品のショッピングを見ると悲しくなる。

彼らの世代が、最初に畑をお金に換えて、お金で食料を買い続けてきたのだ。
食料はけっして一人では収穫できないことを知っている彼らが銀行の利子率に依存して暮らしてきた最初の世代だ。
彼らが、苦痛のなかにいるか、さもなくば退屈しているかぎり
人間の全体の幸福は、まだ先のことだ。  Y.K

危機

二酸化炭素は地球温暖化を生み出すが、植物は喜んでいる。
人類だけに危機がくるのだから。
人類と違って、彼らはジュラ紀*からやり直すこともできる。
環境に適応して進化できるなら退化も自在だ。  Y.K
*ジュラ紀はとくに温暖でソテツなどの裸子植物が繁茂し、恐竜が栄えた

外食と内食

人口密度3人の場所から都市に移動して仕事をしていると
すべての都会人は、すべての食料とエネルギーを買っていることが奇異に見える。

落ち葉の焚火で調理できないことを不満に思ったからではなく、
(私にとって外食とは、天気のいい日に外で食事を作ることである。
都会人は、屋根の下で食事を作るかぎり、内食である。)

火から遠ざかりながら、都市でなおも二酸化炭素を排出するのは
もはや、技術の問題ではないからだ。  Y.K

信仰

生まれたとたん死にはじめているとみなすのは、退屈な科学主義者たちだ。
生涯をかけて学ぶべきことは、死ぬことであると認める不幸に屈しないために、信仰を必要とする。その信仰が人格神でない場合は、稀である。  Y.K

森のアロマ

木製の住宅には木の温もりと香りが感じられるというアロマテラピーを求める場合は害はないが、その天然素材を豊富に供給する森では、森林セラピーを期待できない。森のアロマは、外敵を排除するために生成される場合がほとんどである。自然林からなる森の中で、現代人が求めるセラピー効果は破壊されるばかりか、健康のバランスを崩す場合もある。
19世紀の産業化にはこの森の営みは非科学的で対立的であった。広葉樹がない杉の人工林で平気で森林セラピー効果を期待する無知な現代人にはアロマという化学物質の心理作用効果以上に、たとえば、巨木の人間に対する治癒作用を積極的に認識しているとは限らないのは、200年間の産業革命の知的体系に飲み込まれているからだ。
どの少数民族の住む森にも、侵入者には知らされない巨木がある。  Y.K