テクノロジーの超専門家になろうとする若者たちは
原理の発見者とその概念化に失敗しても
たいていそば屋かうどん屋で生活できるとは考えていない。
だからこそ、才能が開花しない場合
権力構造と権力テクノロジーの虜にされる。
動機なき超専門家を試行する人間に
思考言語(thinktionary)の形成は困難である。
彼らが記号テクノロジーの
ハイエンドユーザであるかぎり
動機なき超専門家を教育するシステムは存続する。
「シナジェティクス」タグアーカイブ
生息地(=habitat)
エアコンや冷蔵庫、そして携帯電話などの省エネには関心があるが
大多数の住居の空力抵抗や奪われる熱エネルギーを軽減するデザインには
人々はまだ無関心である。
切り取られた大地を所有して
固定され静止したままで再び所有される不動産で
富を増大させる土地資本主義を
最優先してきたからだ。
自然の富の形成方法は
個人の富を増やす手段とは
とは無関係である。
生息地や住居環境(=habitat)を
自らこしらえる時間と技術を他者に依存するのは
哺乳類では人類だけだ。
グランチの最初の生息地は
行き過ぎたこの専門分化を維持できる場所だったのである。
触覚
生きるための重要な判断は
触覚に委ねられている。
直接モノに触れる感覚器からの情報に依存している。
モノに触ることから
思案しはじめる傾向が生まれる。
そして価値を判断するために
どんなモノ(自動車やパソコン、そして不動産など)に対しても
手で触れるという無意識の行為を引き起こしている
にもかかわらず
触覚に依存した判断結果は
信頼するに乏しい。
プラトン哲学
モデル言語は
ある対象について観察者のそれぞれ異なった理解を
組み立てるような方法で学習する
構成主義的自己教育からは
誘導されないようにデザインされている。
例えば多面体をどれほど対象化しても
ベクトル平衡体は発見されなかった。
正多面体(Platonic Solids)が引きずる固体的概念を破壊するには
ギリシア時代のプラトン哲学から
25世紀も経過しなければならなかった。
多面体は固体的な概念から再構成された
静的な対称性を形態化したにすぎない。
事物ではなく
自然の先験性を再現したシナジェティクス・モデリングを
ありのままに観察することによって
言語は非常に鋭敏になる。
モデル言語を生成するシナジェティクス・モデルは
先験的な概念の宝庫である。
失敗
失敗は
人間が作り出した概念だから
失敗から学ぶ行為は
自己欺瞞である。
失敗や間違いがない自然には
無数の神秘が潜んでいる。
安全側
われわれは普段使わない数々の能力を備えている。
誰かがもし視力を奪われて生まれても
自然は彼らがうまく暮らせる方法を編み出す。
自然は安全装置(fail safe)を授けている。
自然はけっして失敗しないシステムを発明している。
自然科学
雑草と共存可能な無肥料で不耕起の
無農薬栽培方法を
もし自然が許容しなければ
どんな植物も成長できなかっただろう。
自然農は自然科学に属する。
自然科学は
日本では単に理系のカテゴリーに属するだけで
自然農は科学として認識されていない。
表看板
日本の博士号を授与する審査機構は
現代人の生活に必要な基本的なテクノロジーの開発に
どれほど貢献しているのだろうか。
初期の船や航空機と自動車
そしてパソコンは
すべて大学の外で開発されている。
ライト兄弟は
自転車屋を経営しながら機体の開発を続け
エンジン付きの有人飛行に世界で初めて成功している。
そのパイオニアたちが
博士号の取得に専念した歴史は存在しない。
大学の博士号の審査機構がこの真実の歴史を隠蔽するために
科学者の生活を破壊しない配慮を持ち出しているならば
科学や学問の自由を追求する場などは表看板にすぎない。
彼らの行為はまったく黄昏れている。
続)テンセグリティのユーザ
有用さ(=utility)は
目的ではなく、人間の知性の変遷過程なのだ。
メタフィジックスなくして
宇宙の知性を真の有用さに変換できない。
太陽系から細胞まで
すべての構造はテンセグリティである。
無生物にも有機体生命にも、
テンセグリティのユーザの境界線はなかったのである。
テンセグリティのユーザ
テンセグリティを知り
テンセグリティモデルを学ぶと
テクノロジーへの応用を考えるはじめる人がいる。
例えば、ロボットや構造物などへ。
あるいは人体の骨格と筋肉の関係を
テンセグリティ構造に置換する人がいる。
理解するために
抽象性を具体性に変換できる知性を優位にしたいだけである。
これらはすべて具体性に置き換えて有用性(=utility)を引き出す
頭脳の条件反射なのだ。
テンセグリティは、それ自体が
張力と圧縮力との相補的な原理を応用した
テクノロジーである。
人間がテクノロジーを独自に考え出すことなどないのだ。